神戸一中・神戸高校ラグビー部五十年史

昭和51年12月1日印刷
昭和51年12月5日発行
編集・発行人 佐々田平八
発行所 青陵クラブ印刷所 興正社

創立50周年を迎えて

創立50周年を迎えて

青陵クラブ会長 永田良一郎

昭和の初期、私どもの先輩が、あの楕円球の魅力にとりつかれ、生田川河畔に神戸一中ラグビー部を結成してはや50年の永きを数えるにいたりました。

この間、第2次世界大戦の勃発、学徒出陣、学制改革等の歴史的変革を経つつも、さらに神戸高校ラグビー部へと引き継がれ、輝かしい歴史の灯を燃やし続けている事は喜ばしい限りであります。

いま、ここに神戸一中、神戸高校ラグビー部創立50周年を迎えるにあたり、数々の先輩が燃やし続けてきた情熱の歴史を神戸高校のラグビー部のこれからの歴史に如何に反映していくかを考える時、それぞれの時代における諸先輩のエピソードを語り、戦績を書き残しておくことは非常に有意義であると考えます。

幸いにして、日本ラグビーフットボール協会椎名時四郎会長を始めとして、各層の方々より数々のご寄稿を戴くことができました。

原稿の寄稿、資料の提供、及び多大のご芳志を戴きました皆様方に本稿をお借り厚くお礼申しあげますとともに、母校の諸君が、ラグビーを通じ、意義ある高校生活をすごされ、かつさらに輝かしい歴史を築きあげられんことを切望してやみません。

京大と神戸一中

お祝いのことば

日本ラグビーフットボール協会 会長 椎名時四郎

このたび、貴校のラグビー部が創立50周年を迎えられ、お祝いの言葉を贈る機会を与えられましたことは、私の最も光栄とするところでございます。

50年の長い期間には、時には弛張興廃があったでしょうが、常に母校ラグビーをこよなく愛し、オーバルの球を抱いて汗にまみれ、喜びと悲しみの涙を流しながら、我が国のラグビーの発展のために貢献されたことに対し、深甚の敬意を表すしだいであります。

私自身も大正末期から、今日までつながっており、従って貴校にも深い縁があります。貴校から幾多のラグビーの名選手が輩出しております。卒業後、あるいは京都の旧制第三高等学校に、あるいは京都大学に、あるいは東京大学に進まれ、いずれもそのチームの柱として活躍されたのを私はよく知っております。これらの人たちの共通点はラグビー精神を高く掲げることであり、あくことのない前進を続けることでありました。そのころわずか25年の歴史しか持っていなかった、我が国のラグビーを大きく前進させたのは、これらの先駆者であったといっても決して誇張ではないでしょう。

さらに彼等は社会人としてそれぞれの職に就いた後においても、ラグビーに対する情熱の火を消すことがありませんでした。たとえば神戸ラグビークラブ、L・BあるはD・B(学士ラガー)などにその雄姿を現し、また、発展途上の大学のチームのコーチに当たられました。またレフリーとしてビッグマッチのホイッスルを吹かれた人も数多くおられた。これらにもまして、貴校の先輩方が、当時設立されたばかりの本ラグビーフットボール協会と関東、関西両協会の運営に多大の貢献をされたことであります。

日本のラグビーも、すでに4分の3世紀の歳月を経て、ようやく世界の一角にたどりついたばかりであります。世界への道は遠くかつ険しい。私の熱望するところは貴校ラグビー部が創立50周年にあたり、諸君が単にその輝ける歴史の美酒に酔うだけでなく、心を新たにし、さらに興隆を期せられるとともに、日本ラグビー発展に力を貸していただきたいことであります。

重ねて貴校ラグビー部創立50周年を祝し、層一層のご発展をお祈り申し上げます。


関西ラグビーフットボール協会会長 進藤次郎

神戸高校ラグビー部が創立50周年を迎えられたことを心からお喜び申し上げます。

日本のラグビーフットボール史を回顧する場合、忘れてはならない二つの都市がある。一つは横浜、一つは神戸。前者にはYRAC、後者にはKRACという在留外人のスポーツクラブがあり、いずれも立派な芝生のグラウンドとクラブ・ハウスを持ち、そのラグビー部はなかなか強かった。

大正末期から昭和の初めにかけて、関西でプレーしたラガーたちにとっては神戸は忘れがたい土地である。そのころ私も京都大学のラグビー部の一員として、現在の市庁舎のすぐ南側の公園の中にあった「東遊園地」で神戸外人KRACとしばしば対戦し、大接戦の末、そのつど大きな相手を打ち負かしたことを思い出す。

当時の京大の先輩、同級生あるいは後輩の中に神戸一中出身の優秀なラガーメンがそろっていて、兄弟ラグビーフットボールの進歩と躍進に大きな力となっていた。

奥村竹之助氏(故人)はその中で、最も際立った存在だったが、京大に進まれると同時に、馬場次郎氏(故人)等の、チームメートにはかり、三高以来研究を重ねた本場英国のオーソドックスな8人制のフォワードシステムを京大ラグビーに採り入れた。昭和初期の京大全国制覇の原動力はこの3・2・3システムであった。セブンからエイトへ、日本ラグビーの流れはこれによって目覚ましく近代化の方向に進んだ。

奥村さんの功績については改めて説明の要もないと思うが、馬場さんも京大卒業後、三菱商事神戸支店に勤務の余暇を割いて関西のラグビー界に尽くされ、特に、創立時の神戸一中ラグビー部を熱心に指導された。その後を受けて京大制覇の最初のメンバーであった小西恭賢氏(故人)が一中の教職に就かれて、ラグビー部の基礎を固められた。こうして見ると京大ラグビー部と神戸一中ラグビー部との間には、古くから互いに因縁浅からぬ結びつきがあったわけである。

それから50年、神戸一中の後を受けた神戸高校のラグビー部が長い沈黙を破って、最近復調しつつあることはラグビー界にとって大変喜ばしいことである。だが、若きラガーメンは目先の小さな成功ぐらいに満足してはならない。基礎的な体力を鍛え上げ、プレーの基本を確実に身に着け、大成を将来に期して厳しい試練に耐え抜き、大いに頑張ってもらいたい。

大正から昭和にかけて、神戸一中は多くの先駆者的ラガーを送り出した。その歴史と伝統を継ぐ神戸高校ラグビー部が創立50周年を迎えるにあたり、今後の一大飛躍を期待するとともに、その発展を心よりお祈り申し上げる次第である。


一中ラグビーと私

兵庫県ラグビーフットボール協会名誉会長 白崎都香佐

昭和のはじめ一中、二中のラグビー部が創立される前から、私は一中の先輩 安部正夫、奥村竹之助(故人)、川本時雄、横山三郎さんらと仲良くしていただいています。創部以来一中は小西恭賢氏を、二中は小川重吉氏を部長として合理的なスパルタ式の訓練により両校ともに強いチームを作りました。

昭和4年の第11回全国中等学校ラグビー大会に一中が初めて甲子園に出場した時の、岡部、清瀬、佐々田、真田、川喜多の諸氏やその後の数多くの一中ラガーの皆さんとはいまだに親交を続けている事は誠にうれしいことです。一中が大1回大会から第14回大会まで4年連続出場したあとを二中が15回から3年続けて出場し、第18回大会では一中は優勝戦に進出したが天理中学に惜敗した。当時の一中と二中は互いに競い合い、磨き合って、互いに向上したものです。第23回(昭和16年)以後は両校ともに振るわず、新興チームに押さえられている事は誠に寂しい限りです。

第21回(昭和14年)大会出場の一中がFWに辻井、垂井、木村、バックスに太田、友金、三浦等をそろえた好チームで、保善商、福岡中に勝ち、準決戦で秋田工に対し、同点引き分け抽選で負け涙をのんで敗退したが、私は奇しくもこの試合のレェフリーをつとめ、未だ印象深く忘れることができません。

一中と二中の定期ラグビー戦は、いつも対抗意識に燃えて激しい試合であった。他に負けてもこれだけは・・・・・と、両校あげてカーキ色の応援団の隊列が東遊園地を埋め、父兄も市民も東西に分かれ、数千の観衆の前で息詰まるような熱戦が展開された。しかも両校部長の薫陶よろしくを得てプレーは闘志十分、その攻防は実に堂々たるものであった。私もしばしばレフェリーとして、その立派な試合ぶりを実際に確認してきました。神戸外人クラブ(KRAC)の長老J・エブラハム氏にも数回レフェリーをお願いしたことがあるが、同氏は機会あるごとに「私の生涯の内で、あんなに気持ちの良いホイッスルを吹いた試合はない」といつも言っておられた。このおほめの言葉からとうじの一中対二中戦が、いかに好ゲームであったか、深いつながりをもっていたか我々にとって、大変喜ばしいことであり、誇らしく思っております。

戦後は、何故か両校とも弱体化し、全国大会出場は新興チームに押さえられ、わずかに第53回大会に神戸高校が出場しただけで、はるかに後退してしまったのは大変残念なことです。

以前の一中、二中は新聞やスポーツ紙にのる時は必ず「ラグビーの名門」の冠詞が付いていたのに、これが消えてなくなってしまってから、すでに久しい。まことに悔しくもあり、残念なことであり、また寂しい限りです。

創部50周年を迎えられる神戸高校ラグビー部、また同じく50年が目前に迫っている兵庫高校ラグビー部、両校の部員諸君はこの際大いに奮発し、厳しく、激しい訓練によって、その輝かしい歴史と伝統を復活再現し、勝つラグビー、強いラグビーの体得者として、高校生活をより有意義に楽しい思い出を残されるように努めてほしいと思います。


一中と三高ラグビー

川本時雄(一中23回)

「ラグビー部前史時代」の中に織り込ませていただきました。----編集部


神戸一中と京大のラグビー部

関西ドクター・ラグビー・クラブ会長 一中27回 山本尚武

私はサッカーの名門神戸一中から、当時関西ラグビー界の名門のひとつとされておった大阪高等学校に学び、サッカーとラグビーの良さを教えられた。

本格的にラグビーを始めたのは、昭和3年京都大学に入ってからである。一中、大高の先輩である檀汎(27回)さんに、猛烈に勧誘されたからである。当時、京大FWには川本、位田両先輩が頑張っておられた。医学部の学生でラグビーをやるものは数少なく、入部したばかりの私が、いきなり抜擢されて、名バックス進藤、宇野(故人)、馬場(武夫、故人)の間に入りセンターTBをやらされたのだから、我ながら運の良い男だと思うし、よく務まったものだ。(編集注=京大黄金時代2年目はFWの両氏健在、新たにバックスに檀(SOあるいはFB)、山本両氏が加わり一中先輩大活躍の年、檀さんの柔軟自在な動きと名手星名卒業の後を受けて、山本さんの球さばきは光っていた)

今の京大ラグビーは“サンタン”たる低迷ぶりだが、当時の京大は3年続けて全国に覇を唱えた。私はその一員であったことを心から誇りとするものであるが、同時にラガーマンとして幸運児であったと思う。神戸一中ラグビー部も、その頃に生まれダーク・ブルーのジャージも京大と同じものを取り入れている。一中と京大どちらにも籍のあった私にとっては、人一倍、因縁の深さをこのジャージから感ずる。

私は現在関西ドクター・ラグビー・クラブの会長を引き受けている。全国の医大や医学部を卒業してきたラガーマンが、学閥にとらわれず一つになったチームである。関西ラグビー協会の一員に登録して、毎日曜日ゲームを楽しむとともに、協会の医務委員として、あらゆる公式ゲームに出務して、選手たちの健康管理に当たっている。

ドクターズの面々は三度のメシよりラグビーが好きという連中ばかり、ほとんど、毎週ゲームに集まってくる。集める苦労より集まったメンバーを一応平等にゲームに出場させることの方に苦労する。もちろん、一流チームではないから、プレーそのものは上手ではない。しかし、私は余程支障のない限り応援にしていくことにしているし、またそれを楽しみにしている。

ビッグゲームはテレビ観戦だが、わがドクターズのゲームは外套のエリを立ててグラウンドで観戦することにしている。

そんな私だから、会長になっても10年近くなるが、なかなかやめさせてもらえない。終身刑だと言われている。しかし私は甘んじて受けるつもりである。


ラグビーに生きてラグビーに死んだ
奥村竹之助氏(一中21回)

-日本ラグビー史より-

戦後、外国チームの来日は、昭和27年、香港ケープ・フォースに始まり、同年9月、英本国よりオックスフォード大学が来日した。これをきっかけに、ケンブリッジ大学、豪州学生選抜、ニュージーランド・オールブラックス、ケンブリッジ・オックスフォード連合チーム、カナダ・キャッツ等陸続来日し、日本ラグビー界をにぎわせた。

その皮切りとなったオックスフォードの招聘は、奥村竹之助の非常な尽力によって実現したのであるが、彼は多忙な準備活動の後、全日本の監督まで引き受け、その無理が災いして秩父宮ラグビー場のスタンドで倒れ、しばらく療養生活のやむなきに至った。しかし、どうにか回復すると、日本ラグビー協会の専務理事として、前記のように外国の諸チームを招き、日本ラグビーの国際交流に余暇のすべてを捧げた。

昭和35年3月31日、彼が造ったと言っても過言ではない秩父宮ラグビー場のクラブ・ハウス(注)で理事会開催中に、脳溢血で倒れ、ついに再び起つ日もなく、翌4月1日早暁不帰の客となった。

(注)昭和27年、当時、日銀外国為替管理委員であった奥村の骨折りで、多額の銀行融資を受け、オックスフォード大学チーム来日前に秩父宮ラグビー場のメーンスタンドとクラブ・ハウスが建設された。

彼の自信に満ちたやり方は、時には独断専行の批判を受けたこともあったが彼が修練によって得たラグビー精神に基づき、精魂を打ち込んで指導した日本ラグビーは、すくすくと育ち、彼の残した数々の功績は、何人の追従を許さぬものであり、不滅の光芒を長くラグビー史上に放つものである。

その追悼録の中で、長男・武平氏(ケンブリッジ大学でカレッジの選手、東大OB)が「ラグビーに生きた父は、まさにラグビーに死んだ。これほど本懐なことはなかろう」と追想されている。

ラグビーを愛し、ラグビーを育てた奥村はまさに、楕円球を抱いて倒れた。それはラガーマンの本望であったとしても、奥村の死はあまりにも惜しい。

霊前に秩父宮妃殿下より供花を賜り、英国ラグビー協会、カナダ・ラグビー協会から懇切な弔電が寄せられたのも、国際的ラガーマン奥村竹之助の人徳とその幅の広さを示すものであった。


-奥村竹之助君のこと-

奥村竹之助著「新式ラグビー」序文から-

日本ラグビー協会 会長 香山 蕃

奥村竹之助君は、大正中期、三高ラグビー最強時代のキャプテンであった。さらに京都大学全国制覇の原動力として、彼の力を見逃すことはできない。

彼のプレーは、セカンドローとしてお世辞抜きに、インターナショナル級の名手であった。特にスクラムをホイールしてドリブルに移る見事な足さばきは容易に相手のセービングを許さなかった。的TBパスの攻撃を受けた時など、どこからともなく飛び出してきて一撃必殺の鋭いタックルを浴びせる。彼のプレーは一つ一つが躍動的で、長く眼底に焼き付けられて残っている。

もし、過去50年日本ラグビー界からベスト・フィフティーンを選ぶとすれば奥村君は文句なくその一人に選ばれることは確かである。

奥村君は京都大学在学中に高文試験にパスした卓抜な頭脳の持ち主である。卒業後、三菱商事に入り10余年の海外生活のうち、数年間は英国にあって、いわゆる本場のラグビーを満喫し、真にラグビープレーのあり方を体得された数少ないラガーマンの一人である。

三高時代から優れたラグビーの理論家でありあり、また、ルールの熱心な研究家であった。

西部協会の理事長、日本協会の理事、レフェリー協会の委員長等、多忙な財界活動の余暇はすべてラグビーに捧げている。

もし、ラグビーに申し子ありとすれば、それは奥村君のことだ。


-奥村君は努力家であった-

小西恭賢

奥村君と僕はとは三高、京大を通じて、長い間のラグビー仲間であった。彼は研究熱心な理論家であり、また練習熱心な努力家であった。

奥村といえば、あの素晴らしいドリブルを連想する。緩急自在、ゴム紐で引っ張ったように正確に、巧みに、楕円球をさばく、その絶妙のフットワークも彼自身が研究努力し、人一倍練習し、苦心の末会得したものである。

その奥村君さえ、第1回の全関東・全関西対抗ラグビー(昭和3年)に、練習不足がたたり、選にもれた。日本ラグビー界が秩父宮杯をかけ、殿下のご覧台を仰ぐ最初のビッグゲームであっただけにその選にもれたことを、ひどく残念がり、それから毎日会社までランニングで通勤し、トレーニングを積み、第2回対抗戦には首尾よく選ばれ、全関東の主将として出場した。

ラグビーのことになると、なりふり構わず一途に打ち込んでいく。ラグビーに徹したというか、ラグビーになりきったというか、長い間彼と一緒にラグビーをやってきたが、彼の真似だけは誰にもできない。(これは一中宿直室で小西先生が編者に語ったことである)


初代アジアラグビー協会会長
第4代日本ラグビー協会会長 湯川正夫氏(一中22回)を偲ぶ

湯川正夫追悼録より抜粋

大正時代の一中ラグビーの古い先輩たちは、たいがい三高-京大あるいは東大のコースを通っておられるが、湯川正夫氏だけは、ラグビーに無縁な六高(岡山)から東大に進まれた。

湯川氏の遺影を拝見すると、小柄で1m60くらいの貴公子型の紳士であるが六高時代は陸上競技部で鳴らし、100m11秒台、一時期ローハードルの日本記録保持者であったというから、当時、すでに一流のスポーツマンであった。

ラグビーは東大に進まれてから始められ、持ち前のすぐれた運動神経で、俊敏なHBとして、頭角をあらわした。そのころの東大は清瀬三郎氏のひきいる有名な機関車FWが猛威をふるい、強剛を誇った時代であった。

東大工学部冶金科を卒業され、八幡製鉄(現新日鉄)に入社、“製鉄ラガークラブ”を結成し(昭和2年)勤務の余暇には福岡高校などのラグビー部を積極的に指導された。昭和30年には九州ラグビー協会会長として、日本ラグビー協会副会長を兼ね、戦後ラグビー界の復興発展につくされた。昭和42年、直腸ガンの手術を受け、回復後、八幡製鉄副社長の要職のかたわら、病気の香山蕃会長に代わって日本ラグビーフットボール協会会長を代行され、アジアラグビーフットボール連盟が結成されるや初代会長に推された。昭和44年7月香山氏没後をうけ、故会長の遺志により日本ラグビーフットボール協会第4代目の会長に就かれたが、不幸にもこのころガンの転移により病状が再び悪化し、昭和44年10月逝去された。

昭和の初め、湯川氏が八幡製鉄入社の際、東京から運んできた行李(こうり)のそこに入れてあった3個のボールから八幡製鉄ラグビー部(現在の新日鉄八幡)が生まれ、戦後全国社会人ラグビー大会に優勝すること12回、全日本の王者として3度覇権を握った。戦後の日本ラグビーは八幡製鉄にリードされ、八幡製鉄を頂点とした社会人ラグビーと大学ラグビーの競争の下に発展してきた。

さらに湯川氏は八幡製鉄ラグビーチームを香港、カナダ、ニュージーランドへ単独遠征に送り出し、日本ラグビーの国際交流に寄与された。

九州ラグビー史によると「湯川氏が、まだ製鉄ラガーとして活躍されたころ福岡高等学校(今の九大教養学部)をコーチされたが、彼のタックル訓練の厳しさは、今もなお語り草となって伝えられており、常にフェアプレーとファイティングスピリットを強調された」と述べている。

昭和4年、湯川氏はドイツに留学された。その大学にある都市(ハノイバー?)のクラブ選手となり、都市対抗試合にHBとして出場、俊足ぶりを存分に発揮して活躍された。その時のある試合で、敵ゴール前の密集から出たボールをとった湯川氏は、目の前のルースの端をジャンプして飛び越し、見事トライを奪い、ドイツ人の度肝を抜いたというから痛快だ。さすがかつてのハードルの記録保持者、とっさに修練の奥の手が出たらしく、とにかく湯川氏はすごいスプリントの持ち主であったらしい。

先に亡くなられた奥村氏といい、さらに湯川氏といい神戸一中はラグビー部の創部以前に偉大な先輩を送り出したものだ。ともに戦後、日本ラグビーの発展に一身を捧げられ、日本ラグビーを国際的水準にまで押し上げた功労者であり、戦後の日本ラグビーはこの両氏を除いては語れないであろう。

湯川氏葬送の日、愁然と頭を垂れ、棺を担う八幡製鉄ラガーマン、偉大なラガーマンを送る厳粛なシーン。

編者は「湯川正夫追悼録」の中に、この写真を見出し、思わず目頭が熱くなるのを覚え


思い出すまま

元部長 佐伯義治

昭和47年3月、県立尼崎北校長を最後に停年退職してからもう3年有余、人生60の坂を越すと記憶力はますます薄れ、30年も前のこととなれば茫然自失、何一つ明確に思い出せない。そんな中で、一中でのラグビーとのかかわりがこの上もなく懐かしく楽しく追想される。

私が一中の教諭として着任したのは昭和18年の4月、まさに太平洋戦争の真っ最中であった。その時の5年が45回の諸君で、学年主任の田中寛先生がラグビー部長であった。その田中寛先生から着任後しばらくしたある日、突然「君、ラグビー部の部長になってくれないか。もっとも初めは副部長として勉強してほしいのだが。ラグビー部長はだれでもというわけにはいかないのでなァ」といわれた。全く唐突の話だったのでびっくりした。私は学生時代陸上競技や庭球をやったことはあったがラグビーは全然未知の世界だっただけに戸惑った。いろいろ考えあぐねたものの、半ば強制的でもあったので遂に引き受けて選手諸君(主将白井君)にも紹介された。これがそもそも私とラグビーとの出会いであった。「青陵クラブ」会員名簿で当時の選手諸君の名前を見るにつけ、ひとしお懐かしさがよみがえってくる。

新米の私はいろいろと教えてもらったり勉強した中で、田中寛先生のアドバイスを受け、ウェークフィールドの原書を図書館から借りだして読んだことが印象深く思い返される。もちろん中身は今は茫洋の彼方に忘れ去っているが、私はこれによってラグビーの何たるかを学びえたのであった。

なお、ラガー精神については当時の池田校長先生からもいろいろと教えられ、一中精神とのかかわりをも体得したのであった。

北野中学との定期戦であったか、阪急西宮ラグビー場での試合の最中、校長の席の隣にいた私は、つい熱気に燃えて「センター・・・・・」と大声で叫んだ。と、その途端、池田校長先生から「君、よしたまえ。ジェントルマンシップに反する」とたしなめられた。この時もつくづくと考えさせられた。-----貴重な思い出の一つ。

さて18年の秋、二中との定期戦、あの遊園地での激闘も忘れ得ざる思い出の一つ、実力派二中のほうがすぐれていたかと思われたが、前半3点をリードされながらも最後の最後まで粘りに粘り、敢闘また敢闘一中精神を遺憾なく発揮してワントライを報い同点引き分けに持ち込んだ時のあの感激はまた格別、今も熱っぽく胸によみがえってくる。

(※管理人注:トライの得点は3点、4点そして現在の5点とルール改正が重ねられています)

その時のメンバーは次の通り。

1 福井、2 中村、3 永田、4 斎藤、5 菅原、6 米谷、7 北、8 村本、9 太田、 10 田中、11 脇本、12村上、13 中谷、14 南郷、15 多木

実はこの試合を通して私のラグビーに対する認識と関心はいよいよ深まり、ヨーシッ、一中ラグビーをを天下に!!の気概と意欲を燃やすに至った次第である。

ところが、世は非常、明けて19年になると戦況の悪化する中で学徒動員が一斉に行われ、ついに部活動中止のやむなきに至った。そして20年の終戦を迎えたのであった。 終戦後の貧困と混乱の中で、しばらくは部活動どころではなかった。しかし、世相が次第に落ちついてくるに従って徐々に復活、中でもラグビー部が一番早かった。私は今でもそれを秘かに誇りに思っている。

しかし、20年3月には46回生と共に4も卒業したので、20年度の最高学年は48回生の4年であった。そして21年1月二中との定期戦、復活第一戦では次のメンバー(主将 中西君)で、待望の勝利をかち得たのであった(スコア不明)。ところでメンバーの一人後藤省吾君が去る7月、突如、急病にて逝去した。元気だったのに-----。今も胸が痛む。ネーティブよ、安らかに眠れ。

1 福中、2 磯川、3 清水、4 塚本、5 中西、6 専崎、7 井谷、8 本郷、 9 東尾、10 後藤、11 吉村、12 柳田、13 井上、14 前田、15森脇

ところが、この幸先よいスタートも同年12月の復活第2戦では敗退した。メンバーは次の通り。

1 井谷、2狗谷、3 小松、4 山路、5 依藤、6 磯川、7 福中、8 中西、 9 東尾、10 後藤、11 吉村、12 柳田、13 本郷、14 森脇、15 天知

そして22年は49回生(23年度から新制高校3年—同1回生)の時代となり、吉村君を主将として長谷川、広島なども加わったが、第3戦も敗退した。

この間、戦後部活動復活の時点で、私が最も気を配り、努力したのはOBの組織化と現役支援体制の確立であった。

OBと現役の一体化—それでこそ名にし負う伝統が保持せられ、一中ラグビーの発展と全国制覇の夢も託されると信じた。幸い川本、高嶋両先輩を始めとする諸先輩のご尽力、ご協力によって遂に「青陵クラブ」(会長高嶋平介氏)の誕生を見るに至った。何年何月であったか忘れてしまったが、クラブの名称、名付け親は私。「一中は青谷の上の丘にある」ということから考え出したのであった。

かくてOBの指導と援助が次第に軌道に乗り、23年の夏であったか、徳島県脇町での合宿練習が実現したのであった。

早朝、旅館のそばを流れる吉野川の清流で顔を洗ったことが今も懐かしまれる。お陰で実力も次第に向上し、23年秋、二中との定期戦では次のメンバーで見事快勝、私にとっては神戸での最後の誇り高い思い出となった。

1 織田、2 石橋、3 泉、4 杉浦、5 坂本、6 後藤鳩、7 大倉、8 清水、 9 山瀬、10 天知、11 辻、12 泉太、13後藤省、14 石原、15 吉田

さて、私が神戸高校を去ったのは24年4月、進駐軍命令の大異動により、県立伊丹高校に転じたのであった。伊丹に着任早々情熱を燃やして創設したのがラグビー部。私はもはやラグビーのトリコになっていた。その際一中のOB諸君から一方ならぬ援助を受け、今も感謝の念で一杯である。その甲斐あって伊丹は部創立以来12年目に県下優勝、37年正月大会に出場するに至った。

ところで話をもう一度24年に戻すとその夏神戸高校が天理で合宿することになった。だが顧問の先生がいなかったので、私に行ってくれないかと頼まれた。今は他校に転任している私が付き添うのは少々おかしいとは思ったが、学校長の依頼であればというので快諾、天理の一週間を楽しむことが出来た。風変わりな思い出の一つ。

烏兎早々、歳月の経つのは早く、48年神戸高校は県下優勝、49年正月全国大会に出場して宿願を達成した。喜び限りなし。ところで、県下制覇の一因たりし播州合宿について花咲校長先生にご無理をお願いしたのもほろ苦い思い出の一つ。

そして49年の県下優勝戦では神戸高-伊丹高の対戦、伊丹が勝っている。試合の前夜、電話で佐野先生から「先生どちらを応援しますか」と問われた時は、いささか弱った。運命とは不可思議。とまれ「青陵クラブ」の弥栄と神戸高校ラグビー部の一層の飛躍を祈念しつつペンをおく。