部史

創部の経緯 [3]

自主独往の部成立

神戸一中ラグビー部成立までの特異点は他の学校のように学校側の意向で作られたとか、先輩が主体になり学校側に働きかけて出来たというようなものでなく、学校側はむしろ、その成立を喜ばず、決して恵まれた条件下ではなかった。ただ、ラグビーを愛する若者たちの情熱のみが一切の障害を打ち破って、自主独 往、その成立をかち得たのである。

ボロシャツにボロ靴、小遣い銭を出し合って高価なボールを買い求め、練習が終わるとワセリンで丁寧に拭き清め、丸くなって先端が擦り切れるまで大事に使った。

何から何まで一切を自弁でまかなった、ハーフタイムのレモンの一片まで。最初のブルーのユニフォームも、乏しい財布の底をはたいてやりくり算段のうえ、つくったもので、木綿のごくお粗末なものだったが当時の選手達には最高の晴れ着であった。そのころ、先輩の力でラグビー部を作ってもらい、そのうえユニフォームまで寄贈してもらった結構ずくめの学校もあったようだが、我々には、そんな甘えられるものはひとかけらもなかった。

昭和の初めは日本の国自体が貧しく、深刻な不況時代であった。中学生の小遣い銭などは極ささやかなもの、そのわずかなものを切りつめて、ラグビーに打ち込む若人たちの貧乏物語の数々。乏しき中を有無互いに、分かち合い、助け合い、部創設の共通の課題に取り組んでまっしぐらに突き進んでいく。そこにこん然一体、緊密微妙なチームワークが生まれてきた。

神戸一中の野球部、サッカー部、いずれもその名をうたわれた古豪名門、何の実績も歴史もない新参者のラグビー部などは好奇心で物珍しがってみるものはあったが、極めて影の薄い存在であった。

その頃の生田川の校庭は、今の神戸高校のグラウンドの半分よりやや大きかったくらい。試合をするのにインゴールはなく、両サイドはギリギリいっぱいであった。その狭い校庭の南西隅がラグビーの練習場であった。グラウンド全部使うため、日曜、祭日を利用し思い切り練習した。体操用のろくぼくを相手に、FW第一列の3人が、時には第二列も加わり5人でスクラムを組み、1日100回フッキングの練習をしたこともあった。毎日欠かさず腕立て伏せ、懸垂を50回、100回と繰り返し、鉄アレイや、あるいはレスリングのブリッジ等でFWにとって基礎的に最も重要な腕の力、上半身、首の力を強くするため人の知らないところで工夫し鍛錬した。ラグビーの練習はグラウンドだけでない。他のスポーツの中でも日常生活の中でも、工夫次第でできるものである。こうした地味な努力の積み上げが、FWの押しの基本姿勢を整え、スクラムの強化につながったのではないだろうか。事実、スクラムトライは当時のチームの得意の決め手で、特にゴール前のスクラムは絶対の自信があった。スクラムに押し負けたことは一度もなかった。平均体重が20㌔以上もあったであろう神戸外人FWを押し切りスクラムトライを決めたこともあった。すべてうまず、たゆまず、日頃の工夫、練習の積み上げによって得たものであった。

昭和3年の春までは別段、特定の誰からも指導をうけたことはなく、練習はあくまで自主的に行われた。だが、自主独往も適当な刺激と助言がなければ、マンネリに陥りやすい。見よう見まねのラグビーに飽き足らなくなったころ、折りよく当時のラグビーの2強であった京大対神戸外人戦を見、オーソドックスラグビーを求めて本を読み、手探りながら研究しあった。

また、ビッグゲームは必ず観戦し、ゲームの動き、プレーヤーの一挙一動から、何かをつかみ、何かを学ぼうと熱心に観察し、学んだものはただちに練習に取り入れた。こんな地道で基礎的な努力の積み重ねがあったからこそ後に清瀬三郎、馬場次郎、小西恭賢等諸氏のコーチを受けると貪欲に、一気に吸収することができた。

日本ラグビー史は、神戸一中ラグビー部の創部について「小西恭賢をコーチに迎えると、チームの格が超中学級に完成した。注目に値するのは、ただ受動的にコーチに育てられたものではなく、中学生でありながら部員自身が原書を字引きと首っぴきで研究したりして、自主積極性を持っていた点で、やはり強くなるには強くなるだけの理由があることを立派に証明している」と部成立の過程において、自主的、積極性をもっていたことを評価している。

生田川校庭の練習風景(昭和4年)

生田川校庭の練習風景(昭和4年)