創部の経緯 [4]
当初、学校側がラグビー部の台頭に対し好意的ではなかったのはサッカー部の強化を優先させようとする学校当事者の考え方に、相容れられなかったからである。
強剛御影師範と覇を争い、全盛を誇った神戸一中サッカー部も28回生の名選手たちが卒業してしまうと、31回生以後の俊秀たちが成長するまで若干後退を懸念される、それが30回生がラグビーを始めた頃の情勢であった。その空白を埋めるために、ラグビーグループの中にいる何人かのサッカー巧者を起用したい「ラグビーよりサッカーを」というのが、学校側の方針であり、希望でもあった。そんなことには一向お構いなしに、ラグビーに熱中する連中を頭から押さえつけるわけにもういかず、ほっておけばそのうち消えてしまうだろう。あきらめてしまうだろうというのが、学校側の態度であった。
その上、野球部のエースであり、4番の強打、宮崎周治が、ラグビーの仲間に入って、その万能ぶりを発揮しているのが学校側にとって一層気に入らない点であったらしい。
いずれにしても当時の学校の教育方針からみても、ラグビー部が成立する条件に乏しく、結果的には学校側の態度に反発して成立したことになるが、学校側にも配属将校松尾少佐のような有力な理解者が現れたことは心強い後ろダテになった。
30回生が5年生になり、竹本克治を主将に迎えて陣容を整備し、日頃の練磨がようやくその実力を発揮しだすと学校側の態度も徐々に変化し、10月20日の対甲南高校戦を機にはっきり好転してきた。
この試合は賀陽宮恒憲王殿下御台覧試合とあって、池田校長、平山教頭、どちらかといえば反ラグビーであった両先生も初めて観戦にこられた。
当時。秩父宮殿下を始め、若き皇族方の中にラグビー理解者が多かったが、その御台覧試合となると、そうたやすく望み得ることでなかった。しかも、この栄えある試合に中学生が年長の高校生を相手にTBパス、スクラムトライ、ドロップゴールと堂々、正面攻撃で勝利を得たのだから池田校長の驚きと感激は、ひとしお大きなものがあったようだ。
いずれの時代でも若者は時代の動きに敏感である。ラグビー界の動きに即応しようとしても、学校当事者がラグビー部の存在を認めるまでに3年もかかった。何度か消えてしまいかけたこともあった。よくも辛抱強く持ちこたえたものだ。
昭和3年秋には、5年生(30回)が中心になり、校内にラグビー熱が急速に盛り上がってきた。休憩時間にボールのけり合い、追いかけあいは毎日のこと、体操の時間は誰が言い出すともなく結局はラグビーをやろうといった調子でラグビー一色に塗り替えられ、ついに校内大会まで開かれることになった。
こうして、最初は5年生主導であったが、全校的な支援の広がりを背景に、いよいよ宿願の全国大会にのぞむことになった。
初戦の相手は京城中学。当時、朝鮮、満州ともにラグビーの水準は高く、十分警戒を要する相手であったが32-0と圧勝。続いての準決勝は20メートル近い激しい風が吹き荒れる最悪のコンディションの中、早稲田実業と対戦。激闘虚しく、決勝進出の夢はついえた。3-10のスコアであった。