部史

創部の経緯 [2]

創部までの経過

大正中期以来、その芽生えはありながら育たなかった神戸一中(神戸高校の前身)ラグビー部も、大正15年秋になって一中28回生後藤千代治、原口和平両氏らをリーダーとし、これに共鳴した一中30回生によって本格的に根を下ろしだした。参加した30回生はルールも分からず練習もろくにやっていないうちにいきなり甲南高校との試合に出場する。野球部、サッカー部のメンバーも加わり、試合というにはあまりにもお粗末なものであったが30回生にとってははじめての体験であり、青春を激しくぶつけ合う爽快なラグビーに魅力を感じ、そのとりこになってしまった。やがてラグビー部創立のきっかけとなったのがこの試合である。

後藤千代治氏らは同級5年生を主体にラグビー部の旗揚げを考えたが、卒業と受験を前にして、5年生の秋ともなればそれを望むのは無理なことであった。結局このシーズンは甲南戦の他にクラブチームと一試合をしただけで、その年の12月は大正天皇の崩御にあい、運動競技のすべては中止され、後藤氏らの夢は完全に挫折した。

昭和2年、30回生が4年生になると有力なメンバーが続々加わり、ようやくラグビー部の形が出来上がり、練習も試合も、なんとか自力で消化するだけの人員を確保できるようになった。

当時、県下に中等学校(今の高校)チームはなく、試合はもっぱら年長者の高専(今の大学)チームとクラブチームであった。

まだ骨が固まっていない16、17歳の中学生にとって、年長者との戦いはその当たりが身にこたえたが、当たり負けしないように、自分自身を激しく鍛え上げた。こうして実戦でもまれ、厳しい鍛錬が土台となって、創部への飛躍に大きく役立った。

1928年、学校に無断で関西ラグビー協会に加入した。この年、兵庫県下では一中のほかに明石中学が始めてチームを作ったが、力には大分開きがあり、相変わらず試合相手は年長者の高専校か、クラブチームであった。だが、このシーズンの一中ラグビーは鍛え上げられたFWの威力と俊足のBKの前に、向かうところ敵なく、連戦連勝。神戸高専、姫路高、甲南高、神戸商船、神戸ラグビー等ことごとく撃破した。神戸外人にも2度勝利した。最初はBチームであったが、第二戦はAB混合チームで雪辱を期してきたが、見事に返り討ちし、大男連中を口惜しがらせた。当時、神戸外人に勝つのは京大だけで、関西の大学、高専チームはAB混合チームに勝てなかった。このシーズンの成績は全国大会予選と大会を通じ13戦12勝1敗であった。

対神戸外人戦(東遊園地、昭和4年12月22日)

対神戸外人戦(東遊園地、昭和4年12月22日)