~1973年(神高26回)~
この年、春の近畿大会で天理高校を破って自信をつけた26回生は県予選を勝ち進んで(決勝対報徳21-8)念願の県優勝を果たし、正月の全国大会に実に35年ぶりの出場となった。過去何度も苦杯をなめさせられた報徳学園への闘志をぶつけた勝利であった。そしてそれはこのチーム1年の努力では語れない各回期のラガーたちの努力の積み重ねがあってこそだった。
『毎日新聞』のスポーツ欄に、「懐かしや。あの『一中』がやって来る」の見出しで神高ラグビー部の紹介記事が掲載された。「二中と兵庫県の勢力を二分、頭脳的な試合運びと華やかなバックスで鳴らした戦前のチーム紹介とともに、「人数を半分にした実戦形式のミニラグビーなど、選手自身が創業した練習も神戸高校には多い。伝統は生きている」と、自主を尊ぶ名門の復活を期待する言葉で記事は結ばれていた。
全国大会では北の強豪、新潟工業に対し善戦するもおよばなかった。(7-17)
第53回全国大会対新潟工業戦(昭和49年1月・花園)
~1981年(神高34回生)~
この頃になると、各部が大きな大会に勝ち進むのが難しくなりつつあるなかで、この時期、特に目覚しかったのはラグビー部の活躍であった。
和田保正主将を中心とする34回生は、宿敵報徳学園を準決勝で破り(10-0)、勢いに乗って村野工業高を決勝で撃破(12-0)、全国大会出場を果たした。これは、神戸高校ラグビー部としては8年ぶり(1973年以来、上に記載)、一中から数えて9回目の全国大会出場であった。
近鉄花園ラグビー場で行われた全国大会では、1回戦で福島県代表県立磐城高等学校と対戦し、8対3の逆転勝利をおさめ、一中時代以来42年ぶりの全国大会での白星と話題になった。しかし、2回戦は、翌年1日元日の試合で、シード校宮崎県代表県立高鍋高等学校と対戦、0-51と大敗を喫し、全国の壁の厚さを思い知らされる結果となった。
無得点のままノーサイドのホイッスルが響く。いやというほどの力の差を味わわされた神戸。「よくやった。力が足りずに負けたのは仕方がない。泣くな。3年間精一杯やったラグビーの経験をこれからの人生に生かせ。」
健闘をたたえる上野監督(当時)を囲んだ選手の輪の中に嗚咽がもれる。3年生12人の高校でのラグビーは、これで終わり、明日からは受験戦争の真っ只中へ突進する。
和田主将は「大敗したけれど、全力を出し切ったからいいんです。これだけやれた自信でこれからも頑張ります。」と、無念さをこらえて胸を張った。(神戸新聞より)
また、『週刊朝日』1月22日付では、作家の野坂昭如が、本校ラグビー部に対して、次のように賛辞を贈っている。
「僕はTVで観ただけだが、紺色のジャージーはきびきびした展開を見せ、颯爽たる若武者ぶり、負けた後のインタビューでもすがすがしい表情、近頃のこの分野で泥中の蓮といっていい。」と。
当時のトーナメント表と開会式の模様
(35回生太田浩介さん提供)